仕事のできるできないを以下のような基準で判断する人がいる。
高学年を持つ人→仕事ができる
これは果たして本当だろうか?
一理はある。なぜなら、「高学年はいやだ」といって拒否する人が多くいるからだ。
低学年なら言うことも聞いて、素直で楽だけど高学年は色んな問題も起こすし、反抗期だし大変だから持ちたくない。
そんなことを言う人、言わなくても思っている人、態度に表す人が多いように感じる。
もちろんそんな人ばかりではない。
何も文句を言わず、淡々と高学年ばかりを受け持つひともいる。
だから「高学年を持つ人→仕事ができる」というのはある意味においては当たっているかもしれない。
しかし、
仕事ができる
というのをどのように定義するのかによっても変わってくる。
高学年を立派に担任できる人、良いクラスを作り上げられる人が一年生でも同じことができるか?というと
できない場合だったもちろんあるのだ。
そして、低学年には低学年のしんどさ、大変さがある。
中学年にももちろんある。
だから何もかも「高学年を持つ人→仕事ができる」とはいえない。
高学年ばかりもたされるのは低学年を受け持てないからだ!!という場合だってあろう。
どんな学年でもその学年なりの難しさがあるのだ。
だから、
「どんな学年でもきっちり受け持てる人」
「自分の仕事に文句をいわず、与えられた仕事を淡々とこなす人」
が仕事のできる人なのだ、と私は思う。
校長からの依頼で「○年生担任をお願いします」あるいは「○○専科をお願いします」と言われたときに、
「ハイ、頑張ります」と言える人が「仕事のできる人」だろう。
もちろん返事だけでなく、その仕事をきっちりやり遂げることができなければ行けないが・・・
仕事について、養老氏が以前本の中で述べられていた。
「養老訓/養老孟司」
しかし、仕事というのは世の中からの『預かりもの』です。歩いていたら道に穴が空いていた。危ないから埋める。
たまたま自分が出くわした穴、それを埋めることが仕事なのです。
だから、高学年という穴が空いていれば、その穴を誰かが埋める必要がある。
そうでないと学校組織は成り立っていかない。
たまたま自分が出くわした穴を、「自分の全力の力」で埋めていくことが大切だ。
そう考えるとすっきりする。
私はこの養老氏の仕事観がとっても気に入っている。
今年度、私は5年学年主任になった。
そんな力はない。自信もない。
でもたまたま5年学年主任という穴が空いていて、自分がでくわしてしまった。
それなら、その穴を自分のできる範囲で埋めていけばいいのだ。
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